前回の続き。
廃道を歩いてると老人が歩いてきた。
どうしてこんな所歩いているのか、聞いてみたい気分だったし写真も撮りたかったが、100メートル以上離れているのをずっと待っているのも、どうやって話かけていいのかわからなくなってしまい、やめて歩く事にした。
ここが街の中なら別だ。しかし誰もいない果てのような場所で、老人が来るまで待つというのは、気が引けた。
ここにたどり着いた時、老人は俺の存在に気づいていた。
この時点で2キロ以上は歩いていた。その上で破壊されたこの道を老人が歩くのは不可能だと思った。渡りきって少し遠くから眺めていると、老人は歩いてこちらに来ようとしたが、無理とわかり諦めて俺の方を見た。
明らかに俺が渡りきってトンネルに向かって歩いていくのを確認していた。本当はこれ以上歩きたくなかった。しかし老人の佇まいが、そこに立ち尽くしている雰囲気が先に行けとうながしているかのようだった。
老人は俺が渡りきるのを待っていたのだと思う。自分がこれ以上行けない代わりに、行って欲しいとでも言いたげな雰囲気を感じた。
そして老人は来た道をもどりはじめた。
その後、ロクな写真は撮れなかった。決定的なチャンスを逃したのだ。
廃道を歩く老人。
吹き荒ぶ風、岸壁に押し寄せる容赦ない海の波。誰1人いない、この廃道を杖をついて歩く老人がいた。
急いで戻った。追いつけば何枚か写真が撮れる。しかし走って戻っても老人はいなかった。信じがたいほど歩くのが速い。
どう考えても、ここを散歩道にするとは考えがたい。一体なんだったのだろうか。撮れない事を悔やむ一方で、何か特別なものを見た気がして少し嬉しかった。
三月六日に再び訪れ歩いた。海は穏やかで春の予感を感じた。雪も解けて、破壊されたコンクリートが露骨にでていた。
当然だが、老人はもうそこの廃道を歩いてはいなかった。あの人は一体なんだったのか?なぜ俺が渡りきるまで待っていたのか。そんな事を考えながらモノクロで写真を撮った。
しばらく歩いて、また来た道を戻る。冬は終わりに近づいていた。トンネルの窓にはには巨大な氷柱/ツララはなかった。冬の日々はツララと同じように消えてゆく。
どれだけ大きなツララができても、最終的には解けてしまう。だが無に還るわけではない。その先にある海の水となる。俺の過ごしたその日々もこうやって再び歩く事で、その記憶を身体中に染みこませようとしていた。
あの老人の姿は将来の自分だ。
この廃道を散歩道とまでは行かないが、果ての風景の中で壊れた道を歩き、荒れ狂う波とすさんだ風を全身で浴びながら、しかし海の向こうで輝く太陽の光が海に落ちている様を見つめるのだ。
それは俺にとって決して悪くない将来だ。